掲載:2009年2月
まさしく、光陰矢の如しです。気がつかないうちに、鹿児島のシラス台地に足を踏み入れてから、もう2年半が経ちました。今まで感じた一瞬一瞬の楽しさ、郷愁、驚き、戸惑い、感動などをまとめることは、とてもできないことですが、数え切れないほどの鹿児島での経験から感じたことについてお話をしたいと思います。
鹿児島県の国際交流員として担当している仕事は、主に、書類や広報誌の翻訳、また、外国の訪問団や交流団体が来鹿する際、通訳として事業をサポートすることです。最初の1年は、どうにか仕事をやりこなせましたが、「国際交流を推進する」という役割に多少難問を感じていました。
鹿児島県庁に配属されたことで、鹿児島市にあるアパートに住まいを構えることになりました。市内住まいのため、私の「国際交流」の対象になる地元コミュニティーはどこで見つければいいかも分からないし、「国際交流」をどのように始めたらよいかとも、戸惑っていました。日本に行く前に、どんなところに住むかを考えた時、家族付き合いができる集落のような、周りには知っている人ばかりの町をなぜか想像していました。実際に鹿児島市では、周りには田んぼなどないアパートに入居、アパートから見る周りの風景は実家から見る風景とあまり異なるとは言えないものでした。隣の方から野菜や果物、米をいつももらっているという、郊外に配属された他のJETの話を聞くたびに、うらやましく思っていました。彼らがただのものをもらっていることをうらやましく思ったわけではなく、常に交流している近所の方がいらっしゃることにいいなあと感じていました。なぜなら、私のアパートは階段と空室に挟まれているからです。市内に暮らす便利さにありがたく思いつつ、たまに、私と交流し、話に耳を傾けてくれる人々がどこにいるかと思います。前向きとは言えない考え方とは言えず、ただ人が近づいてくるのを待つだけでした。
これを変えたのは、シンガポールの紹介をするため桜島にある小学校を訪問した経験です。錦江湾の中にそびえる雄大な活火山である桜島は、鹿児島県のシンボルで、県民の誇りでもあります。 島の人口は少ないわりに、小学校と中学校がちゃんとあります。
日本の学校は入学する子供が減少していて合併や閉校する傾向が、シンガポールの学校ほどないようです。学校に行く途中、全校児童がわずか50名と聞き、実に驚きました。学校に到着すると、迎えに来たのはとても明るくて元気な子供たちでした。彼らが私の手、腕と足を掴みながら年齢や誕生日をはじめ、シンガポールの子供が好きな昆虫や動物まで、様々な質問をしてくれました。そのたった30分間の遊びの時間で、何時間もかけたプレゼンテーションより、シンガポールの紹介ができたのではないかという気がしました。
この学校訪問のおかげで、日頃の暮らしにかまけて忘れていた大事なことを取り戻すことができました。それは、JETプログラムに参加した理由でした。マーライオン、罰金天国とガムなしの国というステレオタイプを越え、私が知っているシンガポールを日本の方々に知っていただきたいという、留学経験をきっかけとして思うようになった単純な動機です。しかし、聞く相手が多ければ多いほどいいという観念にしばられ、交流イベントなど規模の大きなものばかりにとらわれていて、人同士の最もシンプルなワン・トゥ・ワン・コミュニケーションや心を交わすことの大切さを見失っていました。学校訪問以来、もっと心を開いて人と交流する努力をしようと決め、今は足湯でくつろぐ時も、近所の居酒屋で食事をする時も、他の人との会話は以前より数倍楽しくなりました。
また、些細なことですが心に響く様々なできごともあります。 近所の方々と交わす毎日の挨拶、霧島の登山道での通りかかった人からの挨拶、母と電車で離れている席に座ろうとした時、隣に座っていた女性が、私たち親子が一緒に座れるように席を詰めてくれた上、遠い座席に座っていた父と席を換えようとしてくれた心遣い、風邪をひいた私に、咳が止まらない様子を見て、のど飴と栄養ドリンクを買ってさりげなく渡してくれた同僚の優しさ。このようなことは、多くのJET参加者も経験したはずで、私たちにとって忘れられない日本の思い出です。こういった写真にならぬ記憶や経験は、飾れないお土産ですが、生涯を共にする貴重なものです。
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